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Facebookプロフィール写真三色旗問題

Facebookのプロフィール写真三色旗問題。
Facebookのリアル友達とコンフリクトしたくないので、誰も見ていないであろうここに書く。

僕はあくまで、三色旗にはしない。
理由は掘り下げればいろいろあると思うんだけど、一言でいうと「変えることであれこれ言われる、思われるのが嫌」だから。「こういうのに反応しないキャラ」というセルフブランディングもあると思う。

そんな理由で腰を上げないから、こういう時に他人からどう見られるかを気にするよりも自分の思いに素直にしたがって行動するタイプの人を、とてもすがすがしいと思うし、羨ましいと思うし、コンプレックスを感じもする。

あくまでその前提で、三色旗プロフィール否定派の論調を見るに…

A-①プロフィール画像変えただけでこの問題について考えたつもりになるのは浅薄すぎるのでは ←わかる
A-②だから、三色旗プロフィールはやめるべき ←わかる

B-①フランスへ過度に肩入れすることで日本も標的にされるのでは ←言ってることはわかる
B-②だから、三色旗プロフィールはやめるべき ←わかる

C-①悲惨な状況なのはシリアも同じ、フランスだけに注目するのはおかしい ←わかる
C-②だから、三色旗プロフィールはやめるべき ←これがわからない!!

Cの論法で三色旗プロフィールを責めるのを見ていると、正直なところ否定する格好の標的を得て「賢明な私」をアピールしているだけにしか思えない。

中身の正しさはさておき、理屈ではC-②のところに来るべきは「だからシリアも含めてしっかり情報収集すべき」とか「だからシリアの国旗も掲げるべき」なのでは。
でもそれを宣言するのは意外に勇気がいる、実際そこまで本気でこの問題にコミットする人は滅多にいないだろうから。

この数日のうちに読んだブログの中に、「だから僕はこれからきちんと情報収集をして、この問題をしっかり考えることを宣言します」というようなことを言い切ってるのがあって、すごいと思った。
どんなブログだったか思い出せない…と思っていたら、履歴に残ってた!これ。
パリ襲撃テロと、僕の頭の中の話
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心に塵ひとつない

亀田興毅が引退した。それに関するニュースのコメント欄に溢れている「亀田は悪いやつだから叩いて当然」な人たちの、美しいまでに澄み切った素直さがおぞましい。素直であると同時に、かれらは報道を通じて亀田を悪いやつだと心から信じていながら、二言目にはその報道を行う「マスコミ」を非難するという矛盾した「裏切り者」でもある。身近にこんなにも見苦しい人はほとんどいないのに、ネットのコメント欄にはそういう人が群がるように湧いているのが不思議だったけれど、この矛盾に気づいて腑に落ちた。かれらはネット(あるいは彼らが最も忌み嫌うマスコミ)によって生まれ、その手のひらの上にありながら一生懸命天に向かって唾を吐いている。当然、手のひらの外に世界を持っている人とは実際に触れ合う機会がない。「亀田は悪もの」も、「マスコミは情報操作してる」も、結局は笑ってしまうほど陳腐で表層的なものの捉え方なのだけれど、どこかで聞いたそれらを心から信じて受け入れる、心が塵一つないクリーンルームになっている素直な人々なのだ。

主にオットークンツリ展のおかげで考える

近頃あまり調子がよくなかったのだけれど、今日は朝から少し自分に鞭を打って動いたことと、久しぶりに早苗がのんびりのお休みで「美術館へ行く」ことを提案してくれたことで、とてもいい一日になった。
朝は4時45分に起きて、布団の気持ち良さに少し悩んだけれど八丁堀へセイゴ釣りに。それは結局アタリもなく、朝はダメなんだと分かっただけで6時半には竿を仕舞ったけれど、帰りに西友へよってごはんとカレーを買って帰って、久々に早苗と朝カレーした。その後ブランチを見ながらうたたね。のんびりしながら絵の整理をして、コピーを取るためのラインナップを決めた。15時ごろに家を出て、上野のキンコースへ。コピーはあまりにも画質が悪くて結局ダメだったけれど、気落ちすることなく庭園美術館へ。オットークンツリ展、すばらしかった。知的で執念的な試行錯誤の末にのみ姿を見せる類のシンプルさとユーモアが、「コンテンポラリージュエリー」という耳慣れないジャンルの作品群の根底に一貫するものとして確かにあって、その本物感と説得力がとても心地好かった。そのシンプルさとユーモアに至るまでの彼の学びと発見は、大袈裟に言うとオットークンツリという人間の上に生じたごく局所的な文明の発展であって、コンテンポラリーアートとしての彼の作品の価値は、その文明の発展を社会に共有し、さらに広く、さらに進んだ文明のためのきっかけとなることだと思った。自分自身、エスモードの学生のころは確かに「知的で執念的な試行錯誤」と(自分の範囲内では)呼んでもよい時間の過ごし方をしていて(ノートに線を描いて何かを表そうとする、それはオットークンツリの作品にもあって、自分のものを思い出したりもした)、そのころの自分の苦しみやそこから生まれる面白さを思い出した。そんな影響を受けて、ミュージアムショップの試し書き用のノートに実在に見える架空の住所と名前を書くというような行動がすらすらと出てきて、この類のふざけ方は久しぶりだと思った。美術館を出た後は、神田のビアバーでビールを一杯とピザとサラダ。それから元82aleのHUBでビールとチキンとポテト。さらにライフで生ハムとパテとクラッカーとルッコラを買って帰って、夏の個展のときに葉月パパ・ママにいただいたワインを開けて乾杯して、huluでルパンの「バイバイ・リバティー危機一発!」を観た。89年のTVスペシャルだったけど、今のアニメにはない絵づくりはとてもオリジナリティーのあるものに見えて、何度も早苗を顔を見合わせて感嘆した。ストーリーはあっちこっちへ飛びながら少しも破綻なくスピーディーに展開し、そしてアクションは適度に破天荒な自由さで、ラストシーンの余韻には早苗と二人して唸り声を上げた。昔のものをなんでも素晴らしいというつもりはまったくないけれど、このオリジナリティとそこから匂い立つ覚悟、制作陣の無頼の風は、コピーや借用やオマージュや「リスペクト」に満ちた今のものづくりと、確かに何かが違っているように感じた。それはまた、オットークンツリが投げかけていたテーマとも繋がるもので、今日はとにかくいろいろと有意義に感じさせられた一日だった。
オットークンツリの作品群には、試行錯誤と苦闘と悦びのストーリーが滲んでいた。これはみな、この人が学び、発見しながら作ってきたのだという説得力があった。「魚の譜」にいま、それはあるだろうか。週一で描かねばならないことが、自分自身の描きたいという情熱や新しいことへのチャレンジ精神よりも重いことになってしまっているとしたら、そんなにつまらないことはない。耳が痛いし、踏み出す勇気はなかなか出にくいものだけれど、そんな自問は核心を突いているように感じる。

 

高石さんの本

頭では、ひとりひとりの人間の来し方や感情の総体、生そのものを、心から尊いものだと思っているのに、それが目の前の人間に結びつかずに、街を歩いているといつも舌打ちする気持ちになるのが自分自身とても不思議だった。なぜこんなにも理論と実践が食い違うのだろう。ZEDのオープニングだけで人間の生の本質的な物寂しさに胸を締め付けられたというのに、なぜ目の前のお年寄りには優しい気持ちにならないのか。両者は「感情」という根で繋がっているはずなのに、僕の感情はちっとも筋が通らない。それはもう、性格的な問題だと諦めていた。諦めるうちに、人の生を尊ぶ気持ちの方が分厚くて固いゴムのようなものに覆われて、アンテナを失っていった。

高石さんの本を読んで、それが僕自身の対人関係におけるコンプレックスや不安によるものなのだとようやく気がつき始めている。街を歩くとき、僕は前を歩く人やすれ違う人を障害物としか思っていなかった。相手が人間でなければ、来し方へも感情へも思いが至るわけがない。そしてそうやって街ゆく人を障害物に見立てるメンタルの根底にあるのは、人と関わりを持つことへの不安だった。

このコンプレックスを自分自身で読み解いて理解していくのは難しい。けれども、先に行動を変えてみることはできる。本を買った昨日からさっそく、せかせか早足で歩くのをやめてみた。そうすると昨日はこれまでに見えていなかった街の細部がいろいろと新鮮に目に映り始めた。今朝は木の枝に括り付けられたリラックマのぬいぐるみを見つけて、少し柔らかい気持ちになった。

そして今日の会社帰りは、すれ違う人の顔を怖がらずに見ながら歩くことにした。寄り道した新宿は人が多くて、向こうから歩く人ひとりひとり、長くても2秒ずつぐらい。観察力が身に付いていないから、見てもその人のことは何もわからない。けれども、いろんな顔の人が、いろんな表情や姿勢で、いろんな洋服やアクセサリーを身に付けて歩いているんだということは分かった。そしてそうするうちに、固いゴムに覆われていたアンテナがうっすらと外気に触れ始めた。僕が顔を見る、その2秒足らずの瞬間のその人の感情が僕に流れ込んでくるように感じたり、頭に光るアクセサリーをその人がお店で選んだときの「好き」の気持ちが自分にも湧いてくるように感じた。そして長らく忘れていた、自分をぐるりととりまく雑踏に無数にきらめく生への重たいほどの畏敬が一瞬蘇って、心の急所をぐいと握られたかのように息が詰まって体の力が抜け、鳥肌が立った。

人と関わりたいのに、本当につながるのは不安で疎ましい。その根を見つけ出すのにはまだ時間がかかりそうだけど、少しずつ人ひとりひとりの生を感じ始めて人というものをまた好きになって、そうして自分のことも好きになっていけるかもしれないと感じている。


週刊新潮、恥ずかしい

写真 2015-06-19 21 02 23

この見出しには心底吐き気がする。

こんな見出しをひねり出して「ジャーナリスト面」してるんなら、僕には少年Aより週刊新潮の編集部の方がよっぽどおぞましい。こんな低俗な精神が曲がりなりにも書店に並んで吊り広告に出るような影響力のあるメディアに巣食っているは害悪でしかない。僕自身が、あるいは僕の父が週刊新潮の編集者でなくてよかったと、親族にも友人にも週刊新潮の関係者がいなくてよかったと心底思う。こんな精神が身近にあったらと思うと心の底から恥ずかしい。


 
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