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高石さんの本

頭では、ひとりひとりの人間の来し方や感情の総体、生そのものを、心から尊いものだと思っているのに、それが目の前の人間に結びつかずに、街を歩いているといつも舌打ちする気持ちになるのが自分自身とても不思議だった。なぜこんなにも理論と実践が食い違うのだろう。ZEDのオープニングだけで人間の生の本質的な物寂しさに胸を締め付けられたというのに、なぜ目の前のお年寄りには優しい気持ちにならないのか。両者は「感情」という根で繋がっているはずなのに、僕の感情はちっとも筋が通らない。それはもう、性格的な問題だと諦めていた。諦めるうちに、人の生を尊ぶ気持ちの方が分厚くて固いゴムのようなものに覆われて、アンテナを失っていった。

高石さんの本を読んで、それが僕自身の対人関係におけるコンプレックスや不安によるものなのだとようやく気がつき始めている。街を歩くとき、僕は前を歩く人やすれ違う人を障害物としか思っていなかった。相手が人間でなければ、来し方へも感情へも思いが至るわけがない。そしてそうやって街ゆく人を障害物に見立てるメンタルの根底にあるのは、人と関わりを持つことへの不安だった。

このコンプレックスを自分自身で読み解いて理解していくのは難しい。けれども、先に行動を変えてみることはできる。本を買った昨日からさっそく、せかせか早足で歩くのをやめてみた。そうすると昨日はこれまでに見えていなかった街の細部がいろいろと新鮮に目に映り始めた。今朝は木の枝に括り付けられたリラックマのぬいぐるみを見つけて、少し柔らかい気持ちになった。

そして今日の会社帰りは、すれ違う人の顔を怖がらずに見ながら歩くことにした。寄り道した新宿は人が多くて、向こうから歩く人ひとりひとり、長くても2秒ずつぐらい。観察力が身に付いていないから、見てもその人のことは何もわからない。けれども、いろんな顔の人が、いろんな表情や姿勢で、いろんな洋服やアクセサリーを身に付けて歩いているんだということは分かった。そしてそうするうちに、固いゴムに覆われていたアンテナがうっすらと外気に触れ始めた。僕が顔を見る、その2秒足らずの瞬間のその人の感情が僕に流れ込んでくるように感じたり、頭に光るアクセサリーをその人がお店で選んだときの「好き」の気持ちが自分にも湧いてくるように感じた。そして長らく忘れていた、自分をぐるりととりまく雑踏に無数にきらめく生への重たいほどの畏敬が一瞬蘇って、心の急所をぐいと握られたかのように息が詰まって体の力が抜け、鳥肌が立った。

人と関わりたいのに、本当につながるのは不安で疎ましい。その根を見つけ出すのにはまだ時間がかかりそうだけど、少しずつ人ひとりひとりの生を感じ始めて人というものをまた好きになって、そうして自分のことも好きになっていけるかもしれないと感じている。


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